「障害者が家族にいること」と「転校すること」
久しぶりに、Shirabe以外のことを……
デリケートな話題に触れることになりますが、一度考えを整理しておきたかったので。
先日、友人との会話のなかでわたしは、「家族に障害のある人がいないほうがいい」というような発言をしました。
これは、母の考え方の影響が大きいと思います。
わたしの弟は重度知的障害者です。
これまで彼関係でいろいろなことがありましたが、今のところおさまりよく、心身ともに落ち着いているようです。家族との関係もいいです。
母だって今は経験も積んだし慣れもあるので今更「わが子に障害さえなければ……!」なんて言いませんし、「障害があるからこそ、この子なんだ」と思えるようになったけど、それでも「障害がないほうが、もちろんよかったよね」という考えです。わたしもそう思います。
子どもをもつことで生じる心配ごとが、ひとつ減るわけですから。
人間だれしも家庭は安定していてほしいものじゃないでしょうか。動揺の種は少ないほうがいいですよね。
友人はわたしの発言を受けて、「あなたの立場上そう考えるのもすごく理解できるけど、じゃあ障害児をもつ親は不幸なの?(そうじゃないよね?)」と投げかけました(彼女はいつも大事なことを考えさせてくれます。ありがたい)。
「もちろん不幸ではないし、むしろ一生わが子の面倒を見ることができるというのは幸せかもしれないとすら最近は思う」と答えました。
でもこの返答はじゅうぶんじゃなかったので、ずっともやもやしていて、ずーーーっと考え続けていたのです(わたしは考えるのがゆっくりで叩けば響くタイプじゃないので、満足いくディスカッションができないのが悩みです……日ごろからよく自分の考えをまとめておかないといけませんね)。
で、出した答えは、「幸か不幸かはまた別の問題」ということです。
このことを考えているとき、子どものころ家庭の事情で引っ越し・転校を繰り返したという友人の言葉を思い出していました。
「転校したことで、友達のつくり方とか、早くなじむにはどうしたらいいかとか、場の空気の読み方とか、そういうスキルが身についたという点ではよかったと思ってる。いろんな土地に思い出もできたし。いい経験にはなった。でもまあ、転校したくてしたわけじゃないし、しなくてもよかった経験ではあるよね」
というようなことを言っていて、すごく印象深かったのです。
「障害者を家族にもつ」ということと似ているなあと思って(厳密にいえば障害者に限ったことじゃなくていろんなことに当てはまるんですけど、わたしは「きょうだい」でほかのことは経験で語れないので、ここでは限定します)。
障害者が家族にいることで、いろいろな経験を積むことができて、その関係で一生の付き合いになるかけがえのない友人ができたり、社会とも深いつながりができたり、家族が強い絆で結ばれている。この子がいなければ今の自分(家族)はない。
と、考えるに至る人が大半だと思います。
そしてそう考えられるということは、今の生活が幸せなんだと思います。
んー でも、「不幸じゃない=幸せ」っていうのは違うので、幸せというか、満足している?
わたしだって、母だって父だって、自分のことを不幸だと思ってないし、周りからだって不幸そうに見られたりしてないと思います。
でもね、この満足感・不幸じゃない感っていうのは、もがいて努力して実らせてもぎ取ったものなんですよ(人によってその自覚が強い・弱いはあるでしょうが)。
転校先で身の振り方を考えて考えて、がんばって自分の場所を勝ち得た友人と同じだと思うんです。
「障害のある子が家族にいてよかった、貴重な経験ができたから」
「転校してよかった、将来に役立つスキルがついたから」
っていうのは、当人だけが語っていいことであって、他人が強要しちゃいけない。
だって、みんながみんなそう語れるとは限らないし、語れるようにならなきゃいけないことでもないから。
周りの人が「ネガティブにしか捉えられない当人に、ポジティブな考え方を提案する」という意味では、救われる人もたくさんいると思いますが…… 難しいですね。当人のそのときのコンディションにもよるでしょうから。
だから、「障害児をもつことは(一般的には、または当人的には?)歓迎することではないけれど、幸か不幸かはまた別次元の問題」っていったらいいのかなあ……
幸福かどうかなんてそれこそ人によるから、誰かが立ち入ることができる問題じゃないんですけどね。
でも、「障害のある子がかわいくて好きで、自分の子にも障害児が生まれないかなと思ったけれど生まれなくて残念」という人もいるそうですし、
障害児に関わる仕事をしていて天職だと思っていて、自分の子も障害をもって生まれて、妙に納得した、という人もいるし、
受け止め方は人それぞれなので「歓迎することではない」と言い切ってしまうのも間違いですね。
わが家がそう考えていたというだけで。
「きょうだいの気持ち」でもよく言われることですが、
障害をもつ人のきょうだいでいることでつらいことがあった半面、よかったことももちろんある。
けど、それを他人が「これこれこんな経験ができたんだからいいじゃないの」っていうのは違う。
ということでしょうかね……
つらいこともあるしいいこともあるし、でもそのことと幸か不幸かはまた別の話。
あっ あと、「障害はないほうがいい」とは思いますが、「障害者はいないほうがいい」という意味じゃないです。全然ちがいます。
「障害がある弟」と「障害がない弟」だったら、ないほうがひとつ問題が減るから好ましい、ということです。
でもそこを考えていくと、「いや~でもやっぱり障害がなかったらこの子じゃないからな~」っていうとこにいきつくわけです。
その繰り返し。
歴史の「もし」と同じで、いっても詮無きことなんですがね……
でもぜったい何かの折に考えちゃう、影のような「もし」なのです。
あと、
不妊治療ですごく大変な思いをしてやっとのことでわが子を迎えることができたとしても、その子が障害をもっていたらご両親はどう思うのかなあ……
大変な思いをしたのにその結果、大きな心配ごとを抱えてしまった……とわたしなら後悔するかもしれないなあ……
なんて思っていたのですが、
子どもが生まれて心配ごとが増えるのなんて当たり前だし、不妊治療までして子どもを望んでいるカップルが、障害のある子が生まれたからってがっかりししないよなきっと、そんなの覚悟の上だよな。愛する準備はできてるよな。
わたしは知ったかぶりで傲慢だな。
と、反省しました。
わが子というのは、ときには「めんどくさーい」とか「大変だあ」とか思っても、それでも変わりなくたいせつな存在ですよね。
子どもといえば、養子制度についてもいろいろ考えることがあって、いろんな人の意見を聞いてみたいなあと思っているのですが……
勉強不足ですし、また別の機会に。